311シンポジウム 福島を忘れない(その3)

その①はこちら
その②はこちら

こんにちは。スタッフの深草です。
今年2016年は2011年福島第一原発事故からちょうど5年、そしてチェルノブイリ原発事故から30年の節目に当たります。FoE Japanは震災以降、福島支援・脱原発に力を入れてきましたが、この5年で起きた事、今の課題、そして向かうべき未来を見据えてシンポジウムを開催しました。

今回は第三部を振り返ります。第三部では
「今、必要なこと~住宅支援、健康影響、保養、避難者支援を実現していくために~」
というテーマで、FoEの満田、矢野、吉田、そして海外から生物学者のメアリー・オルソンさん、平和活動家のスティーブン・リーパーさん、またピースボートの川崎哲さんにコメントいただきました。

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満田からは、多発が報告されている福島県における甲状腺がんの状況について報告。多発の原因について、十分な説明もされていないような状況にもかかわらず、住民の意思を無視した形での自主避難者への支援の打ち切りや帰還促進が行われている状況に対し、行動を起こす必要があると話しました。

・原発事故避難者の無償住宅支援の継続
・住民の意向を無視した、早期の避難指示区域の解除と賠償の打ち切り方針の撤回
・福島県内外における健診の充実・拡大と医療費の減免

をもとめる、100万人署名も呼びかけました。

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メアリー・オルソンさんからは、性差と原発に関する興味深い指摘がありました。
被爆線量の基準等は成人男性を基準にした物が多く、性差が考慮されてきませんでした。
しかし研究によると子どもや女性にとくに影響が大きい事が示されているそうです。

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FOEの矢野からは、福島の子どもたちの保養プログラム「ぽかぽかプロジェクト」について報告がありました。ぽかぽかプロジェクトについてはこちらをご覧ください。

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FOE吉田からは、2016年4月から始まった、電力小売り全面自由化と脱原発・脱化石燃料に向けた電力会社の選び方等の話がありました。パワーシフト・キャンペーンについてはこちらをご覧ください。

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そして最後にピースボートの川崎哲さん、元広島平和文化センター所長のスティーブン・リーパーさんから、核兵器と原子力の観点から話がありました。

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川崎さんは、原子力の技術が元々核兵器を作るために生み出された物である事、日本の核燃料サイクル政策によって、日本が50トン近くものプルトニウムを保有している状況である事を指摘。またスティーブン・リーパーさんは「核は悪」という簡単なメッセージを「この会場を出て、知らない人に」もっと広げていこうと呼びかけがありました。

資料はこちらに掲載しています。

シンポジウムの様子はUPLANさんが録画してくださいましたので、こちらからご覧頂けます。
>【前半】<第1部>福島 <第2部>チェルノブイリ
https://www.youtube.com/watch?v=R1gLtdAX1xE
>【後半】<第3部>今、必要なこと
https://www.youtube.com/watch?v=aCF-T4nPZ0E

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311シンポジウム 福島を忘れない(その②)

こんにちは、スタッフの深草です。前回につづき、3月11日のシンポジウムのレポートをお届けします。

第二部はチェルノブイリがテーマでした。1986年に起きたチェルノブイリ原発事故。当時旧ソ連、現在はウクライナに位置するチェルノブイリでおきた事故で周辺のみならずヨーロッパの国々が広く汚染されました。

2部の最初に、チェルノブイリ子ども基金の佐々木真理さんから発表がありました。

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チェルノブイリ子ども基金は、フォトジャーナリストの広河隆一氏がチェルノブイリ取材の中で病気の子どもをもつ母親たちの呼びかけを受け募金活動を始めたのがきっかけで、1991年4月に設立されました。
佐々木さんからは、被災地の子どもたちは現在も甲状腺ガン・白血病・脳腫瘍などの病気にくるしんでいることや、実際にチェルノブイリ子ども基金がおこなっている支援の様子や現状を語っていただきました。

 

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吉田由布子さんからは、チェルノブイリ事故後できた「チェルノブイリ法」について紹介があり、日本との状況の比較等についても話されました。チェルノブイリ法には汚染地や被災者の定義が含まれています。土壌の汚染の度合いや、その人の立場(原発労働者なのか汚染地域出身の人なのか)により支援なども決められていました。日本は、内閣府原子力被災者支援チームがチェルノブイリ事故後の旧ソ連3カ国のさまざまな対策を調べ、参考にすべき点をあげていたそうです。ですが、それらは日本の政策に生かされていません。吉田さんからは、チェルノブイリ法において国の責任として規定されている「原発事故後の市民の社会
的保護」の考え方に学び、福島原発事故により様々なリスクの増加を被っている市民(住民及び労働者)への国・東電の責任や施策について、再び問い直す時期に来ているのではないでしょうか、と提起がありました。

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私、深草からは昨年訪れたベラルーシで見た事、感じた事を報告しました。
チェルノブイリ原発は、現在のウクライナ領の中にあるので、ウクライナが注目されがちですが、事故当時放出された放射性物質の約7割が現在のベラルーシ側に降り注いだと言われています。
ベラルーシでは、同じ大統領が独立当時から5期連続で地位に居座っている事、言論の自由が限られているなど、そういった政治的な状況から市民活動が抑圧されている現実を目にしました。
ですが、その中でも子どもたちを守ろうとする大人の活動や、若い世代がチェルノブイリの事や再生可能エネルギーの事等を学び未来を作っていこうとする姿にもふれました。
ベラルーシ視察の詳細な内容はブックレットにまとめています→「ベラルーシ報告書 みらいへのかけはし」

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最後にFoEドイツ(BUND)の代表である、フーベルト・ヴァイガー氏からドイツがどのように脱原発を達成したのか、チェルノブイリ原発事故がドイツに与えた影響などの報告があり、また脱原発にむけて国際連携の大切さについて触れていました。

次に続く。

311シンポジウム 福島を忘れない(その①)

こんにちは。スタッフの深草です。
今年2016年は2011年福島第一原発事故からちょうど5年、そしてチェルノブイリ原発事故から30年の節目に当たります。FoE Japanは震災以降、福島支援・脱原発に力を入れてきましたが、この5年で起きた事、今の課題、そして向かうべき未来を見据えてシンポジウムを開催しました。

震災から5年経ちますが、以前原発事故の収束からは遠く、被害者の現状は厳しいと言えます。
そして、避難計画の策定も実質中身のないまますすめられる原発再稼動…
シンポジウムでは福島でがんばるお母さんや、避難した方、長年チェルノブイリ原発被災者を支援する方や海外の活動家、様々なゲストにお越し頂きました。

会場も満員で、資料がなかなか行き渡らなかった方々、立ち見になってしまった方々には大変ご迷惑をおかけ致しました。この場をお借りしてお詫び申しあげます。
資料はこちらに掲載しています。

シンポジウムの様子はUPLANさんが録画してくださいましたので、こちらからご覧頂けます。
>【前半】<第1部>福島 <第2部>チェルノブイリ
https://www.youtube.com/watch?v=R1gLtdAX1xE
>【後半】<第3部>今、必要なこと
https://www.youtube.com/watch?v=aCF-T4nPZ0E

また、五年目に当たり、FoEJapanでは国際声明を発表。
19カ国85団体から賛同を頂きました。
>国際声明「核の脅威のない未来に向かって」

シンポジウムの第一部では福島の方々にお話を頂きました。

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最初に、飯館村の元酪農家長谷川健一さんにご登壇いただきました。長谷川さんは、震災後の初動対応について説明。「放射能について何も心配ない」と説明をうけ、避難された方が戻って来た経緯がありました。ですが、その後、計画的避難区域となります。
原発事故と避難をきっかけに、自殺を選んだ農家の方や高齢者の方がいたこと、今も多くの人々がストレスを抱えている事を話されました。家族皆で暮らしたいと思いながらもその難しさを感じていると長谷川さん。この現状を打破するために、声を上げつづけなくては行けないと、しめくくりました。

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次に福島から京都に避難されている宇野さえこさんです。宇野さんは避難者の権利を求める、全国的な運動を行われています。現在、福島県の避難者は9万8千人とされていますが、自主避難(区域外避難者)の数は正確に把握されていません。来年三月には区域外避難者への住宅支援は打ち切られてしまいますが、弱い立場にいる避難者の人達の命綱を切ることであると話されました。帰宅困難区域の解除も進んでいます。
これからも続くであろう災害の最初の5年でどんどん支援が打ち切られている状況は、今後の先行きの暗さをあらわしています。また、避難者同士の溝、支援の差、様々な社会的な問題も指摘されました。

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押山さんは、福島市でくらす3児のお母さんです。押山さんは、避けられたかもしれない被曝に対する無念の思いと、甲状腺がんへの不安を持っていることを話し、回りのお母さんや人々の間にある、放射能への意識や考え方のちがいで、傷つく事もあると話されていました。「私の中での311は5年経ってもかわりありません」と言葉を詰まらせていました。

(続く)