地球環境と社会のために私たちにできること…代表理事ランダル・ヘルテン インタビュー(その2)

2020年、FoE Japanは設立40年目を迎えます。人生で言えば40歳は不惑と言いますが、日々目まぐるしく変化する社会や環境の中で、私たちがすべきことや考えることも変化し、目の前の課題や目指す社会を達成する取り組みについて、私たちは常に模索しているとも言えます。

 一方で、FoE Japanが40年かけて蓄積してきた知恵や活動実績、市民の皆さまからのサポートも、今のFoE Japanの礎となっていることは確かです。

 これまでの数十年、そしてこの先10年、そのまた先を見据え、私たちに何ができるか。2020年は、少し立ち止まって考えながらも、着実に前に進む一年にしたいと思います。

 さて、40周年の最初に、FoE Japanの代表理事であり、長くFoE Japanを知るランダル・ヘルテンに、これまでのFoEの歩みや、ここ数年の環境問題を取り巻く社会情勢、海外から見た日本の状況についてインタビューしました。

パート1はこちら

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深草)環境・社会問題の構造的な原因を解決しない限り、課題は生成され続けるのかもしれないですね。でも、継続もいつまで…?と考えてしまいます。私はスタッフになって4年です。これまでも市民の力の勝利といえることもたくさんあり、FoEもそれに貢献したといえることはあると思いますが、根本的なシステム・チェンジにどれくらいFoEが貢献できているのか…。個人的には、既存のシステムの前に大きな壁を感じています。

ランディ)環境問題は基本的に人間活動が起こしていると思います。社会全体を見れば、産業、政府、市民社会、様々なステークホルダーがいます。NGOは社会の中の一つの存在で、草の根の声として、FoEが社会で果たしている役割は大きいと思います。カナダに帰国して20年くらい経ちましたが、2〜3年に一度日本にきて、FoEのみんなに会うと、組織として確実に成長していると思います。

 日本の場合、今の政権の中で変化を起こすのが難しいというのはわかります。80年代〜90年代は日本にあまり環境NGOが存在せず、市民の声もなかなか政府にとどかなかった時代だったと思います。北米では、リベラルデモクラシーが成長して、オバマ前大統領の時代は市民社会といい関係があった。日本にも90年代後半に、いい空気が醸成されていた。今は壁がある。だからこそ、どのように影響を与えるか、40周年の今、戦略を考える時期かもしれません。

(写真)COP25でのアクションの様子。2010年代の後半は特に気候危機の激化を体感した時期でもあった。

 私も、FoE Japanで5年以上、南極海洋保全の活動していますが、日本政府の担当者はほとんどASOC(注:南極・南極海連合)とFoEの声を無視していますね。漁業関係者と水産庁が世界の会議にでて、日本を代表しています。日本政府は市民のための組織なのに、なぜ漁業セクターだけが国際会議で日本を代表しているのか。社会の中で一緒に行動できる仲間をもっと探さないといけないです。

 個人的に、過去経験の30年を振り返ると、最初のインスピレーションー地球環境を守る、地球と人類を守っていく、という動機は正しいと思います。NGOとして、お金も人材も限られているけれど、やろうとしていることは正しい。

 一方、例えば化石燃料企業はお金も政治的影響力もあるけれど、これまでわかっていることとして、化石燃料企業は60年代からすでに気候変動について知っていたにも関わらず、利益のために間違った情報を流していました。これに立ち向かうには市民としてやはり活動を継続するしかない。

深草)これまで、システムに問題があり根本的な部分を解決しないといけないという話がありましたが、システムは変わりつつあると思いますか?

ランディ)日本の場合、残念ながら今の政権では難しいだろうと思います。世界の政治でも、ナショナリズムが台頭し、排他的な考え方が増え、富と力がより一握りの人間に集中するようになってきました。それを考えると暗い気持ちになります。

一方で、FoE Japanの仲間たち、人権・環境を保護しようとしている人たち、持続可能な社会を実現しようとする価値観を持っている人たち・組織・企業・政治家が前より確かに増えています。そう考えると、いろんな新しい可能性も出てきていると思います。それをプラスと考えて、チャンスを掴むべきですね。

また、環境運動や気候変動の活動の黎明期と比べると、現在は科学的な根拠がたくさん見出されてきています。それも追い風であると思います。

深草)最後に、40周年を迎えるFoE Japanとそれを支えて下さっているみなさまへメッセージをお願いします。

(写真)私たちに必要なのは現在のシステムの抜本的変革だ。COP24にて。

ランディ)2020年の新年、2020代の新年代、FoE Japanの40周年のタイミングで、今からの10年はまたとても大事な10年ですよね。IPCCは今から10年が勝負と言っています(注:パリ協定の1.5℃目標達成のためには、2030年までに2010年比で温室効果ガス45%排出削減が必要)。SDGs(持続可能な開発目標)も2030年までの目標です。気候変動目標、そして持続可能な開発目標の達成のためにFoE Japanに何ができるのか今考えなくてはいけませんね。化石燃料企業や原発推進企業など産業界はお金もパワーを持っています。彼らは解決を遅らせようとしています。しかし地球は希望もあります。Fridays for Futureにはとてもパワーを感じます。市民もパワーと希望を持って進んでいきましょう。

(写真)気候マーチに参加する日本の若者

地球環境と社会のために私たちにできること…代表理事ランダル・ヘルテン インタビュー(その1)

 2020年、FoE Japanは設立40年目を迎えます。人生で言えば40歳は不惑と言いますが、日々目まぐるしく変化する社会や環境の中で、私たちがすべきことや考えることも変化し、目の前の課題や目指す社会を達成する取り組みについて、私たちは常に模索しているとも言えます。

 一方で、FoE Japanが40年かけて蓄積してきた知恵や活動実績、市民の皆さまからのサポートも、今のFoE Japanの礎となっていることは確かです。

 これまでの数十年、そしてこの先10年、そのまた先を見据え、私たちに何ができるか。2020年は、少し立ち止まって考えながらも、着実に前に進む一年にしたいと思います。

(聞き手:スタッフ深草)

深草)最初に自己紹介をお願いします。

ランディ)ランダル・ヘルテンと言います。カナダで生まれ、若い頃はキャンプやハイキングなど、自然の中で過ごすのが好きでした。親が航空会社に勤めていたこともあり、若い頃にいろんな国を見ることができました。高校を卒業し、日本から電気製品を輸入しアメリカで販売する仕事につきました。その後、大学でマーケティングを勉強して、卒業後の1988年秋に来日しました。最初はビジネスコンサルティングの会社にいたのですが、環境問題について大変な危機感も抱いていて、ボランティアできる団体を探したところ、FoE Japanを見つけました。最初はハイキングプログラムに参加し、その後オフィスでのボランティアもしました。その時は「地球の友」という名前で活動していました。1989年からなので、もう30年の付き合いになりますね。

(写真)ランダル・ヘルテン

深草)当時はどのような課題に取り組んでいたのでしょうか?

ランディ)まずは設立経緯について。1980年当時はもちろん自分はいませんでしたが、FoE Japanの創設者の一人である田中幸夫さんが、アメリカでFoEの創設者であるデイビッド・ブラウアーに会ったところ、日本にもFoEを作ってはどうかと提案されたことがきっかけで、FoE Japanが創設されたそうです。FoE Japanとしての一番最初の活動は、エイモリー・ロビンスを日本に招いて、スピーキングツアーをすることでした。彼の1978年の著作である”Soft Energy Paths: Toward a Durable Peace”を読むと、彼の話は今も重要であることがわかります。彼は、原発は危険であり、再生可能エネルギーこそ私たちが選ぶべき道であると述べています。また、エネルギーと平和のつながりを語っています。

 1990年代のFoE Japanも、今と同じく森林の問題や、エネルギー問題、気候変動、開発金融の問題に取り組んでいました。そういう意味では一貫性がありますね。特に、90年ごろに大きかったのは「金融と環境」と熱帯林保護です。当時のFoE Japanのやり方として、海外のFoEとの繋がりを生かしつつ、日本国内でキャンペーンやネットワークを作って活動するパターンが大きかった。熱帯林行動ネットワーク(JATAN)がFoE Japanの中にできて、その後はサラワク・キャンペーン委員会ができました。また、90年代半ば、日本湿地ネットワークの創設に貢献しました。90年代は、ロシアの森林に関するキャンペーンも規模が大きかったですね。シベリアトラの保護活動などもしていました。80年代には国内の環境団体がとても数少なく、海外のマスコミは(日本の環境活動に関する)情報が得がたかったと聞いています。そのため、海外からの問い合わせがたくさんきました。当時、日本の情報を海外に流す、そして海外の情報を国内に流す、というのはFoE Japanの大きな役割だったと思います。

深草)90年代に、開発金融や森林問題についての活動が大きかったとのことですが、その当時社会的にも大きく認知された問題だったのでしょうか?当時のFoE Japanがそれに注力した背景には何があったのでしょうか?

ランディ)1989年に500人くらいのアマゾン地域先住民族等が、ブラジルで大規模ダムの反対キャンペーンのための集会を行いました。アルタミラ集会(The Altamira Gathering)と呼ばれています。日本からは、田中幸夫さんがこの会議に参加し、インスピレーションを受けたのではないかと思います。

 その後、90年代に今も協力関係が続くPARCなど他団体と協力してインドのナルマダダム建設に反対するキャンペーンを行いました。ナルマダダムは世界銀行の融資によるプロジェクトで、世界銀行が環境破壊や人権侵害しているとして国際的な反対キャンペーンがあり、日本の窓口がFoE Japanでした。FoEのスタッフもインドに行って調査を行い、91年ごろに日本で大きな会議もやりました。その時、OECF(注:注:海外経済協力基金。国際協力銀行(JBIC)を経て、現在は国際協力機構(JICA)の円借款部門)の関与するプロジェクトでの環境人権問題に関する問題提起をかなりやりました。日本政府はびっくりしたと思います。FoE Japanの活動のインパクトはあったのではないでしょうか。その流れが2000年代初めにJBIC環境社会配慮ガイドラインを作成させるという活動につながりました。

(写真)奇跡的に残っていた1997年のニュースレターより。2001年以前のニュースレターをお持ちの方ぜひFoEにコピーを送っていただけると嬉しいです!

深草)今も日本の公的資金や開発金融が引き起こす問題は解決していませんし、むしろ金融機関による人権侵害や環境破壊の状況は悪くなっている気がします…。

ランディ)20代のころから、人口が増え環境破壊がどんどん進み、人類が危機にあるという感覚がありました。80年代後半に日本に来て、これからの人生を考えた時に、人類に貢献したいという気持ちがありました。FoE Japanを見つけて、魅力を感じたのは、国際的なネットワークを持っているけれども、草の根の活動をしていること。それは今も変わってないですよね。もう30年関わっていますが、今も毎日ニュースを見て、気候変動やマイクロプラスチック、海面上昇、生物多様性の問題など、すべて悪い方向に向かっている…。だらこそ、FoEのネットワークの効果を期待しています。こういう仕事は終わりがないと思います。継続することがとても大事。一つの成功があっても、「システム」に問題があるので、それを変えるためには、活動を継続しないといけないと思います。

(写真)2001年のニュースレター。坂本龍一さんの寄稿が!

次へ続く