日本にもあった違法伐採!! 波紋拡がる宮崎県の盗伐事件(6)

第三回 宮崎市大字吉野字深坪(その2)

 本稿で紹介している宮崎県内で蔓延する違法伐採(盗伐)問題に関連して、司法の判断が下されたのは、前回、今回と紹介している宮崎県盗伐被害者の会会員の川越員(かず)さんの事件や、同会会長の海老原さんの事件に関与した林業仲介業の岩村進、松本喜代美が2018(H30)3月20日に有罪判決を受けたのが初めてのケースと考えられますが、2020年1月15日、ついに2件目の司法判断が下されました。
 宮崎地裁(下山洋司裁判官)は、宮崎市で発生した森林窃盗事件で犯行を手助けしたなどとして、森林法違反(森林窃盗)ほう助と有印私文書偽造の罪に問われた鈴木英明被告に懲役2年、執行猶予4年(求刑懲役2年)の判決を言い渡しました*1
 一方、鈴木英明が手助けをしたとされる林業仲介業の富永悟被告は、偽造された伐採届書などを使い宮崎市の山林で所有者に無断でスギを伐採し、森林法違反(森林窃盗)を偽造有印私文書行使の罪で追起訴されていますが、2020年1月8日に宮崎地裁(下山洋司裁判官)で開かれたの公判において、その追起訴内容を認めました*2
 なお、その3件目になるであろう、「黒木林産」社長の黒木達也被告判決は2020年1月27日に出る予定です。

 今回も、宮崎県盗伐被害者の会会員の川越員(かず)さん、威尚(たけよし)さんの事件について、員さんが宮崎県盗伐被害者の会会長の海老原さんと行動を共にするようになってからの展開を紹介します。
※なお、被害当事者の川越員さんの了承を得て、実名で記述しております。

はじめに
 前回の最後に触れた2015(H27)6月5日、員さんが宮崎北警察署に2度目の訪問をしてから時計の針を進め、2016(H28)年10月21日に員さんが海老原さんや他の被害者の会会員とともに訪問したところから始めます。 なお、第一回で紹介した宮崎市瓜生野字ツブロケ谷の盗伐事件において、海老原さんが被害を受け、その被害に気付き、行動を起こしたのが2016(H28)年8月のことです。その直後に、員さんは海老原さんと出会い、行動を共にするようになったそうです。宮崎市瓜生野字ツブロケ谷の盗伐事件の犯人として、岩村・松本は有罪判決を受けましたが、員さんの事件も岩村・松本が関与しているものゆえ、第一回の事件の流れを振り返りながら説明していきます(表1)。

表1 2016年8月~2018年7月までの海老原明美さんの事件などに関連した動き
※宮崎県盗伐被害者の会会長海老原裕美氏からの聞き取りなどに基づきFoE Japanが作成

宮崎県盗伐被害者の会会員として再び警察へ
 2016(H28)年10月21日、員さんが宮崎北警察署を訪れた際、応対したのはH巡査部長でした。員さんはH巡査部長に被害届を提出しましたが、受理されませんでした。その後も員さんは海老原さんとともに同署へ被害届を提出しようと幾度か訪問しましたが、次の担当となったK警部補も員さんの被害届を受理することはありませんでした。
 ただし、幾度か訪問を重ねる中で、担当のK警部補の発言には興味深いものがありました。K警部補は海老原さん、員さん、他の被害者4名が同席する場で「(宮崎)県が悪い。海老原さんは頭がいいから誰のことかわかるでしょう」と発言したことがあったそうです。またその際K警部補から「海老原さんの案件と合わせて員さんの件も対応する」と明言したそうです。さらに訪問後の帰路においてK警部補から海老原さんに電話があり「海老原さんと員さんと平行して進める」と念押しをしたそうです。
 事実、宮崎県警はその後捜査に踏み切り、2017(H29)年7月19日に岩村・松本らの家宅捜査を実施し、10月5日、岩村・松本を逮捕しました。このタイミングで宮崎県警はK警部補が言ったとおり、員さんの事件についても一定レベルの捜査をしたのではないかと考えられます。
 しかしながら、この頃、員さん自身に宮崎県警が捜査に乗り出したことについて知らされるはずもなく、このことは後になってわかったことです。

犯人と思われる事業者が員さん宅周辺でお詫び行脚
 その後、再び時計の針は2018(H30)年7月5日まで進みます。この日、員さん宅は留守にしていて、近隣の方から「K林業が(その近隣の方のところにも)きて「(員さんのところにも)また来る」と言って帰った」との知らせを受けたのでした。翌7月6日、員さんは宮崎北警察署生活安全課に問い合わせの電話を入れると、応対したK巡査長は「K林業は吉野地区をまわり、お詫びをしている」との説明を受けました。この電話のやりとりにおいてK巡査長は「もし(K林業が)金といったらどうしますか?」と員さんに質問したのでした。員さんは「いらない」と返答。示談をさせられると思ったそうです。「金ではなくて泥棒を捕まえてください」と回答し、さらには「なぜ泥棒なのに捕まえないのですか?」とも問いかけました。そして「『(K林業に)もう自宅に来ないでくれ』と伝えてください」として電話を切ったそうです。

宮崎北警察署の警官、「示談金」の話を認める
 2018(H30)年7月18日、員さんは海老原さんらと共にあらためてK巡査長が言葉にした「示談金」の話について説明を求めるべく、宮崎北警察署へ行きました。署で応対したK巡査長は当初「金とは言っていない」と否定し、員さんらに「何時何分でしたか?」と聞き返してきました。員さんはその電話のやりとりをメモに残していたため、ほぼ正確に「お昼前でしたので12時5分前くらいです」と回答したところ、K巡査長は渋々自身の発言を認めたそうです。

 なぜ、このタイミングで犯人と思われるK林業がわざわざ員さんたちに再び接触をしたのか。表1を見ると、2018(H30)年3月に岩村・松本の有罪判決が出ていたり、4月には田村貴昭衆議院議員が国会・衆議院農林水産委員会で盗伐問題に関して2回目の質問をしています。この国会質問において林野庁は2018(H30)年1月に実施した調査結果に基づき、無断伐採が故意に行われた疑いのある事案が11件あることを報告しました。この質問の中で田村議員からは「行政絡みで(盗伐が)黙認されているのではないかとの疑念がある」との発言や、また田村議員の質問を受けた農林水産大臣からは「警察の対応を確認したい」旨の発言がありました*3
 こうしたことがきっかけとなり『宮崎県下の行政機関周辺からK林業へ「示談にしておくように」との指示が出たのではないか』という憶測は、それほど突拍子もないことではないように思われます。
 「なぜこんなにも警察は嘘つきなのか?」、員さんをはじめ、被害者の会のみなさんは宮崎県の警察に対して大きな不信感を抱いています。

有印私文書偽造を証明する書類を入手
 その後、2018(H30)年7月20日付けで宮崎市から個人情報開示決定通知書が届きました。届いた書類は宮崎市に正式に受理された伐採届と2014年10月14日付けの適合通知書。この伐採届出書は「届出人」が松本喜代美、「伐採後の造林に係る権原を有する者」がY、「伐採業者」がY林業となっていました。この伐採届の「森林の所在場所」の欄にYが所有する他の林地にあわせて、員さんの林地(130-1番地)が記載されています(以下に再掲)。
 なお、2015(H27)年1月16日に実際に員さんの林地を伐採したK林業が員さん宅を訪れ、残していった伐採届(再掲図左)は、宮崎市に正式に受理されていないため、正式な伐採届ではありません。また宮崎市に受理された伐採業者がY林業となっている伐採届について、後日、員さんが宮崎市森林水産課に確認をしたところ、Y林業は宮崎市に「白紙にした」と説明していたことが判明しました。
 これでようやく員さんの林地の伐採が「違法伐採(森林法違反)」であったことが公の資料を根拠として証明されたのでした。

図 偽の伐採及び伐採後の造林届出書(伐採届)
※第三回その1 図2の再掲

警察の調書では「和解」として処理
 再び、時計の針は進んで、2019(H31)年2月12日午後、員さんは、海老原さんやその他の被害者の方々と宮崎北警察署生活安全課に行きました。被害者の会会員の被害案件における「森林法違反」の案件に関して、宮崎北警察署が適正に捜査をしたのか否か、説明を求めに行ったそうです。対応したのはK巡査長らでした。
 その後、訪問のついでとばかりに「有印私文書偽造」を所管する刑事第二課に立ち寄り、員さんの件について問い合わせると、なんと応対したK巡査長から驚きの事実が判明しました。「員さんの件は調書ができている」。員さんらは「その調書を見せてくれ」と依頼し、K巡査長が「(員さん)一人で部屋に入ってくれ」というのを、員さんから「他の被害者も共に聞かせてもらいたい」と要望し、結果、員さん、海老原さんら皆で別室に入り、K巡査長から員さんの調書を読み上げてもらいました。
 その調書には「和解」の語句が記載されていました。員さんは被害を受けて以来、「和解」と表されるような行為や意思表示は一切しておらず、警察に対しても明確に「示談はしない。犯人を逮捕してくれ」との意思表示をしていました。このときまで員さんは「調書」の存在すら知りませんでした。当然、署名も捺印もしていません。被害当事者の知らぬところで、その当事者の同意なき調書ができあがっていたことが判明したのでした。
 さらに驚くことは、別室でK巡査長が読み上げていた最中に、さきほどまで面会をしていた生活安全課のK巡査長が突然部屋に入ってきて、その読み上げ行為を制止し、中止させたのでした。員さんたちは自身の事件に関する調書を最後まで読み上げてもらうことも叶わなかったのです。

 員さんらはこの一連の行為に納得がいかず、2019(H31)年2月26日、宮崎県警本部警務部監察課を訪れ、宮崎北警察署で起こったことや調書における「和解」について、「一体どういうことになっているのか」説明を求めると、応対したIとYの回答は、「宮崎北警察署K巡査長などから聞いているが『(和解というようなことは)言っていない』とのことだった」と、発言すら否定する始末でした。

盗伐被害にとどまらず、深刻な健康被害を受けることに
 川越員さん、威尚さんご夫妻は、盗伐被害を受けて以来、さまざま信じられないような出来事に遭遇しました。さらには信頼していた宮崎県や宮崎市、そして市民の味方と信じて疑わなかった宮崎県警や北警察署から傍若無人な行為を受け、それらを通じて蓄積したストレスは計り知れないものがあります。ついには健康すら害するに至ってしまいました。
 最初に威尚さんの調子が著しく悪化し、医療機関を受診したところ、診断は「ストレス」でした。2017(H29)年5月には手術を受け、ペースメーカーを体内に入れることを余儀なくされました。さらに病状は悪化し、腎臓も悪くして、今では週3回、人工透析に通っています。それまでやっていた米作りなどの農作業は一切できなくなりました。健康にとどまらず、生活の基盤すら損なわれてしまった状態です。
 員さんも2019(H31)年3月、調子が悪くなり医療機関を受診すると「蛸壺神経症(原因はストレス)」と診断され、即日入院をすることになり、20日程度の病院生活を余儀なくされました。そのときはトイレに行く以外は歩いてはいけない状態だったそうです。
 幸い、員さんは回復され、今は海老原さんと共に精力的に活動をされています。

最後に
 個人の所有物、資産である森林・林地を対象とした盗伐は、法治国家として行政機関や司法機関が果たすべき役割を十分に果たさず機能不全に陥った場合、その被害を受けた個人は、所有物の窃盗被害にとどまらず、重大な二次的健康被害や生活基盤を損なうような事態にまで影響することもある、ということを如実に表した事例です。
 市民生活や安全・安心を守るために存在しているのであろう、宮崎県下の行政機関や司法機関は、一体何を守ろうとしているのでしょうか?

今後も被害者視点で、宮崎の盗伐問題について注視していきます。(三柴 淳一)

*1 宮崎日日新聞2020年1月16日社会面
*2 宮崎日日新聞2020年1月9日社会面
*3 第196回国会 農林水産委員会第11号(平成30年4月18日(水曜日))議事録
http://www.shugiin.go.jp/Internet/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/000919620180418011.htm

第一回 宮崎市瓜生野ツブロケ谷(その1)
第一回 宮崎市瓜生野ツブロケ谷(その2)
第二回 宮崎市高岡町花見字山口(その1)
第二回 宮崎市高岡町花見字山口(その2)
第三回 宮崎市大字吉野字深坪(その1)
第三回 宮崎市大字吉野字深坪(その2)

置き去りとなったALPS処理汚染水長期陸上保管の選択肢

東京電力福島第一原発で増え続けるALPS処理汚染水について、経産省のもとに設置された「多核種除去設備等処理水の取扱いに関する小委員会」(ALPS小委員会)は、昨年12月23日、「海洋放出」、「水蒸気放出」、そしてその組み合わせという3つの案に絞り込んだ「とりまとめ案」を発表した。しかし、これらはいずれも放射性物質の環境中の拡散を許すものとなっている。大型タンク貯留案やモルタル固化案などの陸上長期保管の代替案は無視されてしまった。

ALPS処理汚染水は、2019年10月段階で約116万m3、タンク数は960基にのぼる。トリチウムの総量でいえば推定856兆ベクレル(注1)。タンクにためられている水のうち約8割で、トリチウム以外の62の放射線核種の告示比総和が1を超えている(告示比総和とは各核種濃度の告示濃度限度に対する割合を足し合わせたもの。排出基準として1未満でなければならない)。ヨウ素129やストロンチウム90などだ。東電は海洋放出する場合は二次処理を行い、基準以下にするとしている。

汚染水に関しては、更田原子力規制委員会委員長が「希釈して海洋放出が現実的な唯一の選択肢」と繰り返し発言。原田前環境大臣も記者会見で「海洋放出しかない」と発言し、大きく報道された。しかし、十分現実的な陸上保管案が提案されているのにもかかわらず、それについてはほとんど検討されていないし、報道もされていない。

実質的な議論がなされなかった大型タンク保管案

陸上保管案については、大型プラントの技術者も参加する民間のシンクタンク「原子力市民委員会」の技術部会が、「大型タンク貯留案」、「モルタル固化案」を提案し、経済産業省に提出している(注2)。

大型タンク貯留案については、ドーム型屋根、水封ベント付きの10万m3の大型タンクを建設する案だ。建設場所としては、7・8号機予定地、土捨場、敷地後背地等から、地元の了解を得て選択することを提案。800m×800mの敷地に20基のタンクを建設し、既存タンク敷地も順次大型に置き換えることで、今後、新たに発生する汚染水約48年分の貯留が可能になる。

2018年8月、ALPS小委員会事務局が実施した公聴会では、漁業関係者も含めた多くの参加者が海洋放出に反対し、「陸上長期保管を行うべき」という意見が表明された。これを受けて山本 一良委員長は、「一つのオプションとして検討する」と約束。

しかし、陸上保管がようやく俎上に上がったのは、一年近くたった2019年8月9日の第13回委員会でのことだった。第13回の会合で東電が大型タンク貯留に関して、「検討したが、デメリットが大きい」という趣旨の説明を行ったのみだ。これに対する質疑や議論は行われていない。

東電がデメリットとして挙げたのは、「敷地利用効率は標準タンクと大差ない」「雨水混入の可能性がある」「破損した場合の漏えい量大」といった点であった。大型タンクは、石油備蓄などに使われており、多くの実績をもつことは周知の事実だ。また、ドーム型を採用すれば、 雨水混入の心配はない。さらに、原子力市民委員会による大型タンクの提案には、防液堤の設置も含まれている。ALPS小委員会は、東電の一方的な説明のみを受け入れるべきではない。

「モルタル固化案」はまったく無視

原子力市民委員会が提案する「モルタル固化案」は、アメリカのサバンナリバー核施設の汚染水処分でも用いられた手法で、汚染水をセメントと砂でモルタル化し、半地下の状態で保管するというもの。

「利点としては、固化することにより、放射性物質の海洋流出リスクを遮断できることです。ただし、セメントや砂を混ぜるため、容積効率は約4分の1となります。それが欠点といえるでしょう。それでも800m×800mの敷地があれば、今後、約18年分の汚染水をモルタル化して保管できます」。同案のとりまとめ作業を行った原子力市民委員会の川井康郎氏(元プラント技術者)はこう説明する。

事務局は、「実績がない」として片付けようとしているが、サバンナリバー核施設での実績をもちだすまでもなく、原発の運転時に発生する低レベル廃棄物についても、その多くがモルタル固化され、トレンチあるいはビット処理を行っている。きわめてシンプルな手法であり、現実的だ。「実績がない」として片付けることは理屈にあわない。

敷地は本当に足りないのか

敷地をめぐる議論も、中途半端なままだ。

東電が示した敷地利用計画は、使用済核燃料や燃料デブリの一時保管施設、資機材保管に加え、モックアップ施設、研究施設など、本当に敷地内に必要なのかよくわからないものも含まれている(注3)。さらに、使用済み核燃料取り出しの計画はつい最近最大5年程度先送りすることが発表されたばかり。デブリの取り出しについても、処分方法も決まっていない。そもそもデブリの取り出し自体を抜本的に見直すべきではないか。

委員からは、「福島第一原発の敷地の利用状況をみると、現在あるタンク容量と同程度のタンクを土捨て場となっている敷地の北側に設置できるのではないか」「敷地が足りないのであれば、福島第一原発の敷地を拡張すればよいのではないか」などといった意見がだされた。

敷地の北側の土捨て場にもし大型タンクを設置することができれば、今後、約48年分の水をためることができると試算されている。

委員から再三にわたり、「土捨て場の土を外に運びだすことができないのか」という質問がなされたが、原子力規制庁は、「外に出す基準について検討が必要」という趣旨のあいまいな回答にとどまっている。

土捨て場にためられている土について、東電は「数Bq/kg~数千Bq/kg」と説明しており(注4)、これが正しければ敷地から動かせないレベルの土ではない。

敷地拡大の可能性については、事務局は「福島第一原発の外側である中間貯蔵施設予定地は、地元への説明を行い、福島復興のために受け入れていただいており、他の用途で使用することは難しい」としている(注5)。もちろん、地元への説明・理解は不可欠であるが、その努力をまったくせずに、「敷地拡大は困難」という結論を出すことは時期尚早だろう。

問題が多い小委員会「取りまとめ案」

 昨年12月に発表されたALPS小委員会の「取りまとめ案」は小委員会の議論を反映したものではなく、事務局や東電の誘導により「海洋放出」、「水蒸気放出」、そしてその組み合わせという結論を導き出したように思える。

 前述の大型タンクをめぐっては、東電の説明をそのままなぞるだけの文面となっている。

土捨て場の土壌の運びだしに関しては、「敷地内土壌が汚染されている実態が明らかになっていないこと、敷地内の土壌の搬出先、保管方法等についての具体化がなされていないこと、敷地内土壌の最終的な処分方法が決まっていないことから、敷地外へ土壌を持ち出すことは困難であるとの結論に至った」など、小委員会で議論されていないことも含めて、決めつけている(注5)。

 にもかかわらず、小委員会の委員が明確な異論を示さない限り、この事務局主導の「取りまとめ案」が委員会の意思として固まってしまうだろう。

 ALPS小委員会での議論はそろそろ大詰めだ。近日中に小委員会が開催され、「取りまとめ」が確定するだろう。そして、地元の理解を得たことにする何らかのプロセスがはじまると思われる。

 しかし、地元の漁業者は「放出ありき」の議論に、早くも反発を強めている。

 ALPS小委員会は、陸上保管案を真剣に検討し直し、地元も含めた幅広い市民の意見をきくべきだろう。

注1) 2019年11⽉18⽇東電発表資料
注2)原子力市民委員会「ALPS 処理水取扱いへの見解」2019年10月3日
注3) 第14回 多核種除去設備等処理水の取扱いに関する小委員会 資料3
注4) 第15回 多核種除去設備等処理水の取扱いに関する小委員会における東電発言
注5)第16回 多核種除去設備等処理水の取扱いに関する小委員会 資料4

地球環境と社会のために私たちにできること…代表理事ランダル・ヘルテン インタビュー(その2)

2020年、FoE Japanは設立40年目を迎えます。人生で言えば40歳は不惑と言いますが、日々目まぐるしく変化する社会や環境の中で、私たちがすべきことや考えることも変化し、目の前の課題や目指す社会を達成する取り組みについて、私たちは常に模索しているとも言えます。

 一方で、FoE Japanが40年かけて蓄積してきた知恵や活動実績、市民の皆さまからのサポートも、今のFoE Japanの礎となっていることは確かです。

 これまでの数十年、そしてこの先10年、そのまた先を見据え、私たちに何ができるか。2020年は、少し立ち止まって考えながらも、着実に前に進む一年にしたいと思います。

 さて、40周年の最初に、FoE Japanの代表理事であり、長くFoE Japanを知るランダル・ヘルテンに、これまでのFoEの歩みや、ここ数年の環境問題を取り巻く社会情勢、海外から見た日本の状況についてインタビューしました。

パート1はこちら

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深草)環境・社会問題の構造的な原因を解決しない限り、課題は生成され続けるのかもしれないですね。でも、継続もいつまで…?と考えてしまいます。私はスタッフになって4年です。これまでも市民の力の勝利といえることもたくさんあり、FoEもそれに貢献したといえることはあると思いますが、根本的なシステム・チェンジにどれくらいFoEが貢献できているのか…。個人的には、既存のシステムの前に大きな壁を感じています。

ランディ)環境問題は基本的に人間活動が起こしていると思います。社会全体を見れば、産業、政府、市民社会、様々なステークホルダーがいます。NGOは社会の中の一つの存在で、草の根の声として、FoEが社会で果たしている役割は大きいと思います。カナダに帰国して20年くらい経ちましたが、2〜3年に一度日本にきて、FoEのみんなに会うと、組織として確実に成長していると思います。

 日本の場合、今の政権の中で変化を起こすのが難しいというのはわかります。80年代〜90年代は日本にあまり環境NGOが存在せず、市民の声もなかなか政府にとどかなかった時代だったと思います。北米では、リベラルデモクラシーが成長して、オバマ前大統領の時代は市民社会といい関係があった。日本にも90年代後半に、いい空気が醸成されていた。今は壁がある。だからこそ、どのように影響を与えるか、40周年の今、戦略を考える時期かもしれません。

(写真)COP25でのアクションの様子。2010年代の後半は特に気候危機の激化を体感した時期でもあった。

 私も、FoE Japanで5年以上、南極海洋保全の活動していますが、日本政府の担当者はほとんどASOC(注:南極・南極海連合)とFoEの声を無視していますね。漁業関係者と水産庁が世界の会議にでて、日本を代表しています。日本政府は市民のための組織なのに、なぜ漁業セクターだけが国際会議で日本を代表しているのか。社会の中で一緒に行動できる仲間をもっと探さないといけないです。

 個人的に、過去経験の30年を振り返ると、最初のインスピレーションー地球環境を守る、地球と人類を守っていく、という動機は正しいと思います。NGOとして、お金も人材も限られているけれど、やろうとしていることは正しい。

 一方、例えば化石燃料企業はお金も政治的影響力もあるけれど、これまでわかっていることとして、化石燃料企業は60年代からすでに気候変動について知っていたにも関わらず、利益のために間違った情報を流していました。これに立ち向かうには市民としてやはり活動を継続するしかない。

深草)これまで、システムに問題があり根本的な部分を解決しないといけないという話がありましたが、システムは変わりつつあると思いますか?

ランディ)日本の場合、残念ながら今の政権では難しいだろうと思います。世界の政治でも、ナショナリズムが台頭し、排他的な考え方が増え、富と力がより一握りの人間に集中するようになってきました。それを考えると暗い気持ちになります。

一方で、FoE Japanの仲間たち、人権・環境を保護しようとしている人たち、持続可能な社会を実現しようとする価値観を持っている人たち・組織・企業・政治家が前より確かに増えています。そう考えると、いろんな新しい可能性も出てきていると思います。それをプラスと考えて、チャンスを掴むべきですね。

また、環境運動や気候変動の活動の黎明期と比べると、現在は科学的な根拠がたくさん見出されてきています。それも追い風であると思います。

深草)最後に、40周年を迎えるFoE Japanとそれを支えて下さっているみなさまへメッセージをお願いします。

(写真)私たちに必要なのは現在のシステムの抜本的変革だ。COP24にて。

ランディ)2020年の新年、2020代の新年代、FoE Japanの40周年のタイミングで、今からの10年はまたとても大事な10年ですよね。IPCCは今から10年が勝負と言っています(注:パリ協定の1.5℃目標達成のためには、2030年までに2010年比で温室効果ガス45%排出削減が必要)。SDGs(持続可能な開発目標)も2030年までの目標です。気候変動目標、そして持続可能な開発目標の達成のためにFoE Japanに何ができるのか今考えなくてはいけませんね。化石燃料企業や原発推進企業など産業界はお金もパワーを持っています。彼らは解決を遅らせようとしています。しかし地球は希望もあります。Fridays for Futureにはとてもパワーを感じます。市民もパワーと希望を持って進んでいきましょう。

(写真)気候マーチに参加する日本の若者

地球環境と社会のために私たちにできること…代表理事ランダル・ヘルテン インタビュー(その1)

 2020年、FoE Japanは設立40年目を迎えます。人生で言えば40歳は不惑と言いますが、日々目まぐるしく変化する社会や環境の中で、私たちがすべきことや考えることも変化し、目の前の課題や目指す社会を達成する取り組みについて、私たちは常に模索しているとも言えます。

 一方で、FoE Japanが40年かけて蓄積してきた知恵や活動実績、市民の皆さまからのサポートも、今のFoE Japanの礎となっていることは確かです。

 これまでの数十年、そしてこの先10年、そのまた先を見据え、私たちに何ができるか。2020年は、少し立ち止まって考えながらも、着実に前に進む一年にしたいと思います。

(聞き手:スタッフ深草)

深草)最初に自己紹介をお願いします。

ランディ)ランダル・ヘルテンと言います。カナダで生まれ、若い頃はキャンプやハイキングなど、自然の中で過ごすのが好きでした。親が航空会社に勤めていたこともあり、若い頃にいろんな国を見ることができました。高校を卒業し、日本から電気製品を輸入しアメリカで販売する仕事につきました。その後、大学でマーケティングを勉強して、卒業後の1988年秋に来日しました。最初はビジネスコンサルティングの会社にいたのですが、環境問題について大変な危機感も抱いていて、ボランティアできる団体を探したところ、FoE Japanを見つけました。最初はハイキングプログラムに参加し、その後オフィスでのボランティアもしました。その時は「地球の友」という名前で活動していました。1989年からなので、もう30年の付き合いになりますね。

(写真)ランダル・ヘルテン

深草)当時はどのような課題に取り組んでいたのでしょうか?

ランディ)まずは設立経緯について。1980年当時はもちろん自分はいませんでしたが、FoE Japanの創設者の一人である田中幸夫さんが、アメリカでFoEの創設者であるデイビッド・ブラウアーに会ったところ、日本にもFoEを作ってはどうかと提案されたことがきっかけで、FoE Japanが創設されたそうです。FoE Japanとしての一番最初の活動は、エイモリー・ロビンスを日本に招いて、スピーキングツアーをすることでした。彼の1978年の著作である”Soft Energy Paths: Toward a Durable Peace”を読むと、彼の話は今も重要であることがわかります。彼は、原発は危険であり、再生可能エネルギーこそ私たちが選ぶべき道であると述べています。また、エネルギーと平和のつながりを語っています。

 1990年代のFoE Japanも、今と同じく森林の問題や、エネルギー問題、気候変動、開発金融の問題に取り組んでいました。そういう意味では一貫性がありますね。特に、90年ごろに大きかったのは「金融と環境」と熱帯林保護です。当時のFoE Japanのやり方として、海外のFoEとの繋がりを生かしつつ、日本国内でキャンペーンやネットワークを作って活動するパターンが大きかった。熱帯林行動ネットワーク(JATAN)がFoE Japanの中にできて、その後はサラワク・キャンペーン委員会ができました。また、90年代半ば、日本湿地ネットワークの創設に貢献しました。90年代は、ロシアの森林に関するキャンペーンも規模が大きかったですね。シベリアトラの保護活動などもしていました。80年代には国内の環境団体がとても数少なく、海外のマスコミは(日本の環境活動に関する)情報が得がたかったと聞いています。そのため、海外からの問い合わせがたくさんきました。当時、日本の情報を海外に流す、そして海外の情報を国内に流す、というのはFoE Japanの大きな役割だったと思います。

深草)90年代に、開発金融や森林問題についての活動が大きかったとのことですが、その当時社会的にも大きく認知された問題だったのでしょうか?当時のFoE Japanがそれに注力した背景には何があったのでしょうか?

ランディ)1989年に500人くらいのアマゾン地域先住民族等が、ブラジルで大規模ダムの反対キャンペーンのための集会を行いました。アルタミラ集会(The Altamira Gathering)と呼ばれています。日本からは、田中幸夫さんがこの会議に参加し、インスピレーションを受けたのではないかと思います。

 その後、90年代に今も協力関係が続くPARCなど他団体と協力してインドのナルマダダム建設に反対するキャンペーンを行いました。ナルマダダムは世界銀行の融資によるプロジェクトで、世界銀行が環境破壊や人権侵害しているとして国際的な反対キャンペーンがあり、日本の窓口がFoE Japanでした。FoEのスタッフもインドに行って調査を行い、91年ごろに日本で大きな会議もやりました。その時、OECF(注:注:海外経済協力基金。国際協力銀行(JBIC)を経て、現在は国際協力機構(JICA)の円借款部門)の関与するプロジェクトでの環境人権問題に関する問題提起をかなりやりました。日本政府はびっくりしたと思います。FoE Japanの活動のインパクトはあったのではないでしょうか。その流れが2000年代初めにJBIC環境社会配慮ガイドラインを作成させるという活動につながりました。

(写真)奇跡的に残っていた1997年のニュースレターより。2001年以前のニュースレターをお持ちの方ぜひFoEにコピーを送っていただけると嬉しいです!

深草)今も日本の公的資金や開発金融が引き起こす問題は解決していませんし、むしろ金融機関による人権侵害や環境破壊の状況は悪くなっている気がします…。

ランディ)20代のころから、人口が増え環境破壊がどんどん進み、人類が危機にあるという感覚がありました。80年代後半に日本に来て、これからの人生を考えた時に、人類に貢献したいという気持ちがありました。FoE Japanを見つけて、魅力を感じたのは、国際的なネットワークを持っているけれども、草の根の活動をしていること。それは今も変わってないですよね。もう30年関わっていますが、今も毎日ニュースを見て、気候変動やマイクロプラスチック、海面上昇、生物多様性の問題など、すべて悪い方向に向かっている…。だらこそ、FoEのネットワークの効果を期待しています。こういう仕事は終わりがないと思います。継続することがとても大事。一つの成功があっても、「システム」に問題があるので、それを変えるためには、活動を継続しないといけないと思います。

(写真)2001年のニュースレター。坂本龍一さんの寄稿が!

次へ続く