原発を退けた人々の力(1):韓国江原道・三陟(サムチョク)~「普通の女性たち」が立ち上がったわけとは

IMG_0908三陟(サムチョク)市は韓国江原道南部に位置する。人口は約7万人。美しい海水浴場と石灰岩の洞窟が有名な観光地でもある。

サムチョク市では、前市長が強引にすすめようとした原発誘致に、市民が粘り強い反対運動を展開した。ついには反原発で住民投票を公約にかかげた新しい市長を当選させるに至ったが、この市長が住民投票をやろうとしたが中央の意を受けた選挙管理委員会にはばまれた。それならばと市民が主導して住民投票を実施し、ついには誘致反対を勝ち取った。11月24日、サムチョク市を訪問。この驚異の運動を成功させたコアメンバーの人たちに話をきくことができた。(写真:サムチョク核発電所反対闘争委員会およびサムチョク女子高同窓会のメンバーからの聴き取り風景)

サムチョク市は30年間で核に関するたたかいが3回あったという。
1992年から99年にかけての原発誘致に対する反対運動、2003年から2005年にかけての核廃棄物処分場への反対運動、そして2010年からはじまった再度の原発誘致への反対運動。
「私たちは最初の2回のたたかいに勝利しました」とサムチョク核発電所反対闘争委員会のメンバーで市議でもあるイ・グァンウさんは胸をはる。「そして3回目についても、苦しい局面を乗り越えながらほとんど勝利しました。来月発表される第8次電力基本計画では、サムチョクは原発候補地からはずれるでしょう。それが最終的な勝利です」。

以下3度目の原発誘致への反対運動の概要を、イ・グァンウさんからの聴き取りおよび各種資料をもとにまとめる。

強引に原発誘致を進めた前市長

サムチョク市では、李明博(イ・ミョンバク)政権によるバックアップのもと、2010年からキム・デス前市長が強引に原発誘致を進めようとした。市議会とは「住民投票にかける」という約束をしたが、これは無視。

誘致賛成派は「空がみえないほど」のプラカードを設置し、誘致賛成の署名を集め、2011年3月9日に発表。なんと市の96.6%もの人たちが誘致に賛成しているとしたが、これは信ぴょう性に乏しいものであったという。そしてその2日後に福島第一原発事故が起こった。

サムチョク市の市民やカトリック関係者、教職員組合などが中心となり、「サムチョク核発電所反対闘争委員会」が結成された。キャンドル集会など、さまざまなアクションを展開。一貫して建設に反対。市長に対して、原発の是非を問う住民投票を要求し続けた。原発建設予定地となったサムチョク市クンドク面の住民たちも立ち上がり、「クンドク核発電反対闘争委員会」を組織。2012年1月には、地元の名門校のサムチョク女子高の同窓会も、原発建設反対を決議。運動に合流した。

市長リコール運動に失敗。が、2年後の市長選で圧勝

彼らは一度は韓水原による住民説明会の阻止に成功。さらに市長が住民投票要求を無視し続けると、2012年6月から市長のリコール運動に取り組むこととした。1,500人ものボランティアが参加し、リコールの住民投票に必要な署名は1か月という短期間で集めることができた。この勢いに乗って、勝つと思いきや、10月31日の投票日当日、自治体の末端職員やチンピラたちが投票所の前で投票にきた市民を威嚇。所定の投票率である34%を達成することができず、開票に至らなかった。こうして市長のリコールは失敗した。

しかし、これにもめげずに、彼らは2年後の市長選挙にかけた。水曜日にはミサ、キャンドル集会を継続。一人デモやスタンディング、人々に伝える運動に取り組んだ。そして2014年、「原発の賛否を問う住民投票の実施」を公約をかかげたキム・ヤンホ市長が圧勝。

原発は国家が決めるものなのか?

キム市長は公約通り、議会に住民投票を提案。8月末に住民投票議案が通過した。ところが、中央の意をうけた選挙管理委員会が「原発は国家事務だから、住民投票の対象ではない」と拒否。

ならば、住民がやるしかないと、住民投票管理委員会が組織された。2014年10月9日、有権者の68%が投票し、うち85%もの人たちが原発誘致に反対の意思表示を行った。

一方、市長は、住民投票を行おうとしたことが職権濫用にあたるとして起訴された。しかし、のちに無罪とされる。「投票による意見集約は住民意思の確認手段」とされたのだ。

普通の女性たちが立ち上がったわけ
「地域の未来の問題だと思っていましたが、国家とのたたかいでもありました」

この驚異的な運動の中で、何度も何度もつらい局面があった。リーダーたちの中にはいやがらせや脅迫によって、病気になってしまった人もいたという。

「涙がでるほどうれしかっこと」の一つが、地元の名門校のサムチョク女子高同窓会が、「原発反対に力を注ぎます」と決定し、いままで運動に縁のなかったきわめて普通の女性たちが運動に合流した。のちに「核アングリー・マム」と呼ばれ、脱原発派のキム・ヤンホ市長の誕生にも大きな力となる。

当時、この決定を行ったのが同窓会の第10期会長キム・スクチャさん。

「高校の同窓会で、よく原発反対という政治的な問題に踏み込めましたね」ときいてみた。

「私は、これを政治的な問題とは思わなかったんです。私たち自身の問題、地域の問題だと。じっとしていたら原発が入ってきてしまう。となりのウルチンでは原発が導入されても、地域はさびれるし、農産物も売れなくなった。地域の豊かな富がなくなってしまった。おまけに放射能の問題もある。地域のため、子どもたちのために、反対を決めました」とスクチャさん。

「ところが、反対運動をやってから知りました。これは国家との闘いなのだと」。

「“笑いながらやっていこう。しぶといやつが最後に勝つんだ”。つらくなるたびに、私たちはこのように励ましあいました」と、サムチョク核発電所反対闘争委員会の共同代表のキム・オクリンさん。「そしてこの言葉は本当のことでした」

「核アングリー・マム」たちは、笑顔が素敵な、世話好きのおばさまがただった。

(満田夏花)

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▲サムチョク女性髙の同窓会のみなさまとともに

「原発反対決起大会24周年」と書かれたバナー

▲原発予定地となっていたサムチョク市のクンドク面河川敷にかかげられた原発反対のバナー

サムチョク市クンドク面「原発白紙記念碑」の前で

▲原発白紙記念碑の前で、クンドク原発反対闘争委員会のジュ・ヘスクさんとともに。記念碑自体は、第一回目の原発誘致を退けたときのもの。ジュ・ヘスクさんは、クンドクの美しい自然を愛し、一貫して原発に反対してきた。

 

 

 

 

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